イヤホンジャックの向こう側


「コーヒーカップ」


まだ目覚めない町をながめて 青色の薬缶をコンロに置いた
だれかに命じられたことでは けっしてないのだけれど
あたたかいコーヒーを飲んでようやく わたしの朝
時折、舌をやけどして 慌てて水をふくませる
すべてうまくいくはずはないから
そんなはじまりかたもあるだろう
うすぐらい町の街灯が ようやく眠りについて
すこしずつあかるんで 鳥たちが朝をつたえて
やけどした舌を確かめながら このささいな痛みを知ること
冷めていくカップを手で包み はじまりがはじまることを
やさしい沈黙のなかで 飲みこんでいく






「カーテン」 三角みづ紀


自分で自分を幽閉するひとたち
緑色のカーテンを開けたら
日曜日の朝が 湿っている
テレビ塔のてっぺんが
霧につつまれて 見えなくて
軽快に移動する鳩
とおく揺れてる市庁舎の旗
赤いレンガ屋根の家々には
窓、そしてカーテン
このカーテンを閉めれば
風景と自分が切断されて
ますます眠りが深くなる
いつだって 考えを手放せるし
いつだって 物思いにふけることができる
カーテンを開けたり 閉めたり
決めるのはわたしたち






「鋏」


伸ばしつづけていた前髪を キッチンの丸机の上にある
鋏で ざりっと切る
伸ばすのには ずいぶん時間がかかったのに
黒い髪はあっけなく 散らばる
何かを変えたいとき ひとは動いてみる
何かが変わったとき ひとは案外気づかないのかも
すっかりと変わることに まだ躊躇しているわたし
鋏を手にしたまま 前髪しか切れずに
すっかりと変わることに 迷っている
いつか気づくだろうか 変わってから
しばらくして ようやく
この決断が輝きますように。
迷っているわたしと 困っている鋏
ほんのささいなことで 人生は変化したり
しなかったりする






「カレンダー」


天井の高いこの部屋には 時計とカレンダーがない
時間を気にしないひとが 眠るための 部屋だから
なくてもかまわないのだろう
白い紙とペンを手に 夜中にカレンダーを作る
時計はスーツケースに しのばせてきた
季節のうつろいは
景色を見ていたら 知ることができる
日々が進む速度は
いつだって変わってしまうから なかなか知ることができない
時間に追われて 生きることは厄介
でも
時間を追いかけて 生きることは困難
手作りのカレンダーは とてもいびつで
あまり予定もないのだけれど
明日を どう大切に過ごすか。
ながめては 考えている






「市場」


快晴の昼下がりに 地下鉄に揺られて
たくさんはいるバッグを持って 市場へ向かう
ひとつきだけの わたしの暮らし
まもなくおしまいだから
チーズやハムは あきらめて
パンとすこしの野菜を求める
あたたかくなっても使えそうなストールと
スーツケースにほうりこむラベンダー袋も
ないものねだり。
ずっと こんな生活が 続けばよいのだけれど
わたしはただの通過者
人生のはじまりとおわりを
自分で決めるのは むずかしいが
旅であったら
はじまりとおわりを 決めることができる
生まれて、死ぬこと
はじまり、おわること
幾度となく 生まれ変わるために
わたしは わたしの町ではない町を進む
死んだものと生きるものが並んでいる 市場の片隅の
花屋の花々に心をうばわれるが
枯れるのを見届けられないから
買わずに 帰る


               三角みづ紀 第七詩集『よいひかり』より







寿限無、寿限無 五劫の擦り切れ 海砂利水魚の 水行末 雲来末 風来末 食う寝る処に住む処 藪ら柑子の藪柑子 パイポパイポパイポのシューリンガンシューリンガンのグーリンダイ グーリンダイのポンポコピーのポンポコナーの長久命の長助